カ ト リ ッ ク 土 浦 教 会

マイケル・コールマン神父からのメッセージ NO.2 (2009.10)
ゆるし


キリスト教の根本的な教えは、愛とゆるしです。

ある日、一人の律法学者は、イエズス様に質問しました。「すべてのおきてのうちで、どれが第一のおきてですか。」 イエズスはお答えになりました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。」 「隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということです。(マルコ12:28〜31)

その他に、イエズス様はゆるしについて、こう言いました。 「あなたが祭壇の上に供え物をささげようとするとき、もし兄弟があなたに、何か恨みを抱いているのを思い出したならば、 供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と和解し、それからもどって供え物をささげなさい。」(マタイ5:23)

また別のときに、ペトロはイエズスに、「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したならば何回までゆるしたらいいのでしょうか。7回までですか。」とたずねた。 イエズスは答えられた。「私はあなたに言う。7回どころか7の70倍まで。」と答えた。

確かに、長い人生の間に何回も傷つけたり傷つけられたりすることもあります。 その原因の一つは、やはり神様につくられた人間の中に、性格、人格、育った環境が非常に違うからです。 確かに、心が深く傷つけられたときもあります。 しかし、イエズスは、この教えをお定めになったときに、みなが、すぐそれを実現できると思いませんでした。 これは、あくまでも目標です。その努力が一番大切です。 逆に、いつまでもゆるそうとしない心は、相手よりも自分に大きな損であり、心の平安も奪われます。 最近一つの雑誌にこのような記事を読みました。

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恨みがあなたの健康をむしばむとしたら・・・?

ある日、ぼくらの心の先生である方が、集会に参加する全員に、透明なポリ袋とジャガイモ1袋を持ってこさせました。 幸せに生きるためのとてもよいヒントを、実践のなかで学ぼうということです。そこで、ぼくらはこう言われました。 これまでの人生でゆるすことができなかった人ひとりにつき、ジャガイモをひとつ選び、そこに相手の名前と日付を書いてポリ袋に入れなさい、と。

予想できるかと思いますが、いくつかの袋はとても重くなりました。 そのあとぼくらは、これから1週間、どこへ行くにもその袋を持ち歩くように言われました。 夜はベッドサイドに、移動中はバスや車の座席に、さらに毎日、デスクの横にも置いておくのです。この厄介な荷物をひきずって歩くうちに、ぼくらは、自分がどれほどの重荷を背負っているのか、 その重荷に対し、日々どれほどの注意を向けなければならないのかに気付きました。 だって、ジャガイモの存在を忘れることはできませんから。 もちろん、まわりの人たちがいぶかしく感じていることは明らかでした。ぼくらがその袋を持ち運ぶ期間が長くなるにつれて、なかのジャガイモが傷み、ドロドロに腐っていくのは当然のことでした。

この試みは、昔の恨みを抱きつづけることの代償について、おおいなる教訓を与えてくれました。 それはときに、ぼくらの人生に重くのしかかってきます。 ぼくらは、ゆるしが相手に対する贈り物であるかのように思いがちです。 でも、ゆるしとは、ゆるされた人よりもはるかに多くのものを、ゆるす人にもたらしてくれるのです。ですから次回、相手に対してゆるせないと感じたときは、自分の心にこう問いかけてみてください。 ぼくの袋は、今のままでもう十分に重いんじゃないだろうか、と。

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先ほど言ったように、イエズス様の根本的な教えの一つは、ゆるしです。

イエズス様は、そのゆるしの教えをお定めになったばかりでなく、自分も十字架に釘づけにされたときに、口から出たことばは、 「主よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているかわからないからです。」と。 イエズス様のような、ゆるしの心をやしない育てるために、日々の生活の中でがんばりましょう。


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